昭和五十七年十月三日 朝の御理解


御理解第 九十六節 「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸がたてられぬ。先を知ってはおらぬぞ。如何に世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる」


 神の働きを信じて疑わない生活、信心生活というのはそういう神様を信じて疑わない生活を言うのだと思います。ところが、ならいかにして神様を信ずることが出来るようになるかと。その神様をいよいよ絶対なものとして信ずる稽古なんですね。信心の稽古というのは。おかげを頂く稽古じゃなくて、神様を信ずる稽古なんです。おかげを頂く稽古のとこに焦点をおくから、信心が進まないし、間違ってくるんです。
 このことを通して神様をいよいよ疑わんですむ信心が出来て行く。そういう信心が、いわゆる信心の確立を、まあ願うということになるでしょうね。信心が確立していかないけません。どうもおかげを芯にしてでは、みかげを受けて、本当にこんな時にはあんなおかげを頂いた。こういうおかげも頂いたという。まあその程度の神様を信ずることは出来るにしても。神様の本当の働き。『信ずる者が真の神徳を知らぬこと』というような御教えがありますが、私共が真の神徳を知り、それを信ずるということ。
 そういう信ずる稽古はどういう時出来るかと言うと、今日の御理解じゃないけれどもね、神のことをとやかく人が言う。まあ言うなら、例えばしっかり信心しよんなさるけどももうと言うて、悪口を言われるような時、そういう時ほど、それは神様をいよいよ信ずることが出来れる稽古をせよと神様が言っておられる時です。あっ信心のなかもんなわからん。参って見にゃわからんという程度のものではなくてね。そういう時ほど、神様を信じて疑わない。
 先だって、三十日の神話会の時に、久富繁雄さんがお話しをしておられる中に、我情我欲で例え財産が出来ても、我情我欲で出来たものではそれは本当なもんじゃないと。という意味のことをお話しの中にしておられましたが。私共が、それが信ぜられるということ。してみると、なら我情を捨てなきゃいけない。我欲を捨てなきゃいけない。いよいよ、言うならば神情一筋に進めてまいりまして、言うならば、おかげを受ける。財産もでけるという、これなら間違いがないというわけなんですけれどね。世間一般には結局財産が出来るとか、何が出来ると言うけれども、結局我情我欲で、まあ財産を作って行こうと、まあ血道をあげておるわけです。
 成程、それはやり方がよかったり、運がよかったり致しますと、それは立派に儲け出しもしましょう。立派に出来もしましょうけれども、それでは、ね。本当なものじゃないというのです。本当のものはどこまでも神様のおかげで、言うならば我情我欲でじゃない、神情をもって生まれてくる人間の幸福の条件というか、財産というか、立ち行きでなからなきゃならんと思う。そこでなら神様を信ずる働き、力が、いつどういう時に出来るかとね。
 一生懸命参ったから、拝んだから、おかげを受けたから、というわけにはいけん。その一つの神様を信じて疑わない心をつくる。その稽古に精進しなきゃいけません。おかげを信ずるのじゃないです。神様を信ずる稽古。なら、神様を信ずる稽古という、その稽古の材料がね。例えば今日あたりのような、神様を知らない人が、神のことをとやかく言う。そういう時に、神様を信じておるなら、まあそれに向かって言い訳することも、どうすることもいらない。神様の働きを信ずるから、黙っておれれる。まあ、言うならば、馬鹿と阿呆で道を開けと。というようなその行き方は、いよいよ神様を信ずることの出来れる、一つの教えであり、手立てであると思いますね。
 だから自分達も率先してね、神様を信ずることの出来れる、言うなら修行に取り組まなければいけませんね。それには我情を捨て我欲を捨て、まあギリギリのところ申しますと、まあ何と言うですかね。我情我欲を取るということは、もう死んだ気でということですよね。我情我欲を取って、言うなら一生懸命、死んだ気で励ましてもらう、精進さしてもらう。そこから徳も受けられるし、また道も開けてくる。そういう道であって、本当の道である。そういう繁盛であって、本当の繁盛だというわけなんですね。なかなか死んだ気になれませんですね。我情が出ます。いわゆる人間心が出ますね。 最近ここの御結界に、おそらく幹三郎が頂いておったことだろうと思う。ここに書いて置いてあった。それを頂いてこっち、私はいよいよ心行は神行だな、と実感するようになりました。心行、心の行というのは神様の、神の行とこう言うですね。神様がなさるような行なんですね。はあ成るほど心行とは神行だと。ならお道の信心がどこまでも生神を目指すということが願目であり、焦点でなからなきゃならんというふうに教えられますので、どうでもこの心行に徹しなければいけない。
 心の行に徹して行くうちに、ははあ成程これが神行、神の行。神になって行く行だなと分からせてもらう。言うならば、確かに、黙って治めるといったような修行は神行です。もう神の行ですね。神様を信じなければこの心行は出来ませんが、また、心行しなければその神の行を成就していくことは出来ません。言うことも、言うなら語ることも要らん。神様に一心心を向けてね。お縋りして行けば良いのである。
 そこで、その、まあいわゆる黙って治める稽古。もう本当に昔の話しですけども。三十数年も前、椛目の吉木という所があります。もう吉木から沢山お参りがあって、今は一人もお参りがありません。吉木に共励会のようなのがあって、あちらへ年に一遍づつ宅祭のようなことを、部落の方達が皆で致します。たいへん雪の日の寒い日でしたが。私が参りますというので、みんなで親先生はおうどんが好きだからおうどんを作ろうというので、まあみんなでおいしい真っ白いメリケン粉でうどんを作って、私が行ったら、もうすぐその上に、何かいっぱい具のようなものが入っておるうどんを早速出されました。
 ところが、頂き出したところが、すめが入っとらん。まあもう具はいっぱい入れてある。私が行ったらすぐ、こう熱いすめをかけて出そうというとこだったでしょうけれども、出した人がすめをかけずに出しとるわけ。それでも、私が大体食べてしもうた頃、「あらあ」ち言うておる。勝手の方で言いよりますもん。「ありゃ、親先生にあげたうどんにすめが入っとらんじゃった」ち言いよる。「まあ、先生じゃろか、もうすめが入っとらんなら入っとらんち、早よ言って頂きゃいいのに」と言われる。笑い話のような話しでしたけれども。
 なら、その頃、私の信心がね、死んだ気でという信心修行しよる時でしたか。だから、死んだ気でというのはね、言うならばね、仏さんが、お位牌さんがいちいちもの言いなさるわけじゃない。お供えをしとって、お供えが、味が悪かとか、良かとか言いなさる筈がない。「これはあんた、すめが入っとらん」と言いなさる筈がない。馬鹿げたような話ですけども、やはりね、本当に死んだ気でと一生懸命の信心をする時は、そういうところもやはり通らせて頂くことは、非常に素晴らしい修行になります。心行になります。
 これはうどんとか食べ物だけのことではありません。あなたが一生懸命、一生懸命というのは、もう死んだ気で、ならもう死んだ気であれこれ言わんですむ。そりゃ実際は生きとるから言いたい。けどもこれが信行だ。これが神の行であるというように、それが分かって来る。信じて来るから、いよいよね。神様へ向こうて行く手立てが出来ていくのです。ここでは、一口言わずにおれないと言う時ほど、言うならば本当の心がけが出来る時なんです。その向こうに神様を成るほど信じて疑わないですむ。もう限りない、言うなら信行が、受け物が出来るのです。
 そういう生き方こそ、我情我欲のない生き方じゃないだろうか。一生懸命、なら一生懸命とは、もう死んだ気でということなんです。なら死んだ気でということはです。なら今日の御理解、どんな場合であっても神様が顔を洗って下さることを信じて、カボチャの修行も、黙って治める修行もさせて頂く。それに徹することなんです。その徹するところに、何と言うですか、信心の本当の味わいというかね、信心が佳境にいって行く一つの手立てなんですね。
 一生懸命ということを、言うならばね。一生命をかけるというふうに書いてありますようにね、命をかける、命がけ。それを、ならまた言うと、命、死んだ気でということになります。なら死んだ気でということは、今も申しましたようにね、の信心修行からは、必ず神様を疑わないですむ、いわゆる、我情我欲でよいじゃない。神情が生まれてくる。その神情におこって来るおかげ。その神情に現れてくるおかげ。これなら絶対のもんだ、というわけなんですよね。
 どうでしょうか、皆さん難しいでしょうか。日頃合楽理念に基づいた行き方をしよると。ならこれに徹するということが信心だ。修行だということになってまいりますと、いよいよ信心がね、有り難いもの、尊いものということになってくるように思います。
 最近、心行は神行と。本当に心の行が神の行に移行していく。そういう私は心行を、いよいよ身につけていきたい。まあ人がとやかく、まあ神のことを言の葉にかけるような時であってもね。いよいよ本当の心行が出来る時と思って、じゃ一つ心行に、いわゆる神の行に取り組ませて頂くね。初めの間は心の行。心の行の時には、やはり、やっぱり本当にじゅつない。けども、それが神の行になっていくとそれが有り難い。それが楽しゅうなっていく。心行から神行に移行していく。移り変わっていく自分の心の状態。
 いよいよ神のことを言の葉にかけるようなことがあっても、そこで腹を立てたり。そんなことは、腹を立てたりだんではない。いよいよ神様を信じて疑わない。一生懸命の信心修行が出来る時として、それを尊しとして、それを受けていく信心修行になると有難いですね。
どうぞ